180日間の介護と別れが教えてくれたこと
母が亡くなってから、まだ5ヶ月。日常は動いているけれど、私の心はあの日の病室に置き去りにされたままです。母の手を握った感触、最後に見た表情、医師からの吐血の連絡——そのすべてが今も鮮明に残っています。
「これからどう生きるか」なんて、まだ決められません。でも、泣いてもいい。立ち止まってもいい。私は、少しずつ歩いています。
母を嫌いだった理由と、反発心からの自立
母はいつも余裕がなく、イライラして私に八つ当たりしていました。パートに出ていた母は、家では怒ることが多く、父がいないと生活できない不安定さもあり、そんな母を私は恥ずかしく感じていました。
「私は絶対に母のようにならない」——そう強く思い、自立を目指すきっかけとなりました。経済的にも精神的にも、自分の足で立つこと。それが、私の生き方になりました。
中学時代の責任感と孤独
中学の頃、私は部活の後、家事や勉強に追われる日々を送りました。塾には通えず、母が落ち着けるように母が帰宅する前に、家事をこなすことが日常でした。ご飯を炊いて、洗濯をして、母が叫ぶのを聞きたくないから、毎日必死に動いていました。
父と母は当時ギャンブルをしていたため、家庭内の安全や安心も自分で確保する必要がありました。今では法律で禁止されていることも、当時は「普通」でした。誰も止めてくれなかったし、私たちもそれが当たり前だと思っていました。
三兄弟の真ん中としての自己肯定感
私は女・女・男の三兄弟の真ん中として育ちました。長女は自由気ままで怖いもの知らず、末っ子は甘えん坊でわがまま——その間で育った私は、常に「自分はしっかりしなければ」と感じていました。
母は私に無関心で、褒められた記憶はほとんどありません。何かを頑張っても「当たり前」と言われるだけ。失敗すれば怒られる。だから私は、自己肯定感がとても低いまま、大人になりました。
「認められたい」が私の原動力だった
母に褒められなかった分、私は誰かに認められたくて、ずっと頑張ってきました。勉強も、仕事も、家庭も——全部、「ちゃんとしてるね」と言われたくて、必死でした。
でも、その根っこには「私は価値がないかもしれない」という不安がずっとありました。最近、ふと気づいたことがあります。私は、母に「あなたが1番だよ」って言われたかったんだな、と。
誰よりも頑張ってきたことを、母に認めてほしかった。でも、最後までその言葉は聞けませんでした。それが、こんなにも悲しいなんて、思ってもいませんでした。
母にしてほしかったこと、母に言ってほしかった言葉
私は娘に「あなたが1番だよ」と言います。「頑張ってるね」「ありがとう」「大丈夫だよ」——そういう言葉を、できるだけ伝えるようにしています。それは、母からもらえなかった言葉を、私が娘に渡しているからです。
うちの場合、手のかかる長女に気を向けがちですが、私は「真ん中の子」の気持ちを、誰よりも知っています。だからこそ、次女の小さな変化や、言葉にできない寂しさに、できるだけ気づいてあげたいと思っています。
母の死が教えてくれた、命を守ることの大切さ
母の死後、私は健康診断を受けました。胃カメラではピロリ菌や異常はなく安心しましたが、大腸に将来リスクのあるポリープが複数見つかり、手術が必要になりました。
先生には「37歳でこの状態はあまりない。来てくれてナイスだよ」と言われました。もし母の死がきっかけでなければ、私は検査を受けなかったかもしれません。母は直接の言葉でなくとも、命の大切さを気づかせてくれました。
母の背中から受け継いだこと
母は愛情表現が少ない人でしたが、必死に生きる姿、家族を守ろうとする強さ——その背中は私の中に残っています。最後の「ありがとう」の表情だけは、今も私の中に残っています。
私は母からもらえなかった言葉を、今、自分の子どもたちに伝えています。「あなたが1番だよ」「頑張ってるね」「ありがとう」——小さな声かけも、愛情のひとつです。
180日間の振り返りと今の私
母との最後の180日を振り返ることで、悔しさ、後悔、感謝——すべての感情が言葉になりました。母との時間は私を深く揺さぶりましたが、同時に、自分や家族を大切にする学びの時間でもありました。
私は、介護を通して母を許すことができました。その瞬間、ようやく過去の痛みが静かに癒えていくのを感じました。

