180日間の終わりが近づいて
母の余命が半年と告げられてから、私たち家族は毎日を大切に過ごすようになりました。最初の頃はまだ元気そうに見えた母も、日に日に体力が落ちていき、食事の量も減り、言葉も少なくなっていきました。
それでも、母は私たちの声に耳を傾け、時折微笑んでくれました。その笑顔が、私にとって何よりの支えでした。
それでも笑ってくれた、あの日のこと
ある日、娘が母の手を握って「おばあちゃん、また一緒にお団子食べようね」と言ったとき、母は小さく笑いました。その笑顔は、私が見た中で一番優しくて、あたたかくて、今でも忘れられません。
私は泣けなかった
母が亡くなったあと、私は泣けませんでした。気が張っていたから——というより、「私がしっかりしなきゃ」と思い込んでいたからです。
葬儀屋との打ち合わせ、費用の精算、親戚への連絡、役所の手続き……すべて私がやりました。父は、何もできない人でした。だからこそ、私がやるしかなかった。
悲しみを感じる余裕もなく、ただ「進めなきゃ」と自分に言い聞かせていました。でも本当は、誰かに「大丈夫だよ」「泣いていいよ」と言ってほしかったのかもしれません。
母の最期と、私たちだけの看取り
点滴も透析もすべて止めてから、一週間が経った頃。私は母のがんが複数転移していたこともあり、自分の体調も気になって、大腸カメラと胃カメラの検査を予約していました。
「お母さん、今日は静脈麻酔だから連絡とれないけど、明日また会おうね!」
そう声をかけて病院を後にしたあの日。夕方、検査が終わって病院に電話をすると、看護師さんは「特に変わりありませんよ」と言ってくれました。
でも、その夜、病院から電話がありました。「お母さまが吐血されました。かなりお辛そうなので、モルヒネを使用してもよろしいでしょうか?」
私は、かわいそうなことをしてしまったと後悔しました。最期は、できるだけ穏やかに過ごしてほしかったから。
そして翌朝、4時20分に再び電話が鳴りました。慌てて病院に向かい、4時30分に到着。母は、私たち家族が見守る中で、静かに旅立ちました。
父と弟は間に合いませんでした。姉家族には何度も連絡しましたが、返事はありませんでした。私と姉は、私の再婚をきっかけに関係がこじれていました。
母が遺してくれたもの
母が残してくれた写真、言葉、そして思い出。それらは今も、私の中で生き続けています。母がいなくなっても、私は母の娘であることに変わりはありません。
母のように、優しく、強く、誰かを支えられる人でありたいと思っています。
誰かの大切な人を見送るあなたへ
別れは、いつだって突然で、受け入れがたいものです。私の場合まだお別れが言えました。
でも、あなたがその人のそばにいた時間は、きっとその人にとって何よりの宝物です。
泣いてもいい。後悔してもいい。でも、あなたがその人を思う気持ちは、必ず届いています。
この記録が、あなたの心にそっと寄り添えますように。

